[第六話]カオス村の人々

第六話 歪んだ静寂

村に来てから、三ヶ月が過ぎていた。

季節は静かに巡り、光と風の角度が少しずつ変わっていく。草木は相変わらず揺れ、川のせせらぎも変わらない。朝になると鳥が鳴き、昼は子どもたちの笑い声が響き、夜には焚き火の明かりのもと、誰かのギターが優しく空気を撫でていた。

だが藤沢たちは、あることに少しずつ気づき始めていた。

空気が変わったわけではない。変わったのは、自分たちの感じ方のほうだった――と、藤沢は思った。

それまでも、ほんのかすかな違和感はあったのだ。だが、あまりに自由で美しい風景の中では、それすら気のせいのように思えた。いや、思いたかった。ようやく辿り着いたこの「村」が、疑う余地のない楽園であってほしかったのだ。

だが今、その“気のせい”が輪郭を持ち始めていた。

たとえば、共有スペースの一角に、「俺の場所だ」と言い張る者が現れた。誰もが自由に過ごせるはずの場所に、個人のマットや椅子が置かれ始める。草に寝転がるのが当たり前だったその空間に、ある日、ラグマットが広がり、次の日にはスピーカーが置かれ、気づけば小さなテーブルが据えられていた。

「ここ、使っていいかな?」

そう尋ねる者に対し、「あ、ごめん、ちょっと今、休憩してるから……」という曖昧な拒絶が返る。誰も明確に線を引かないまま、そこは“誰かのもの”としての空気をまとい始めていた。

それを「自然」と感じる者と、「勝手だ」と感じる者が分かれ、周囲では次第に目線と言葉がぎこちなくなっていった。

「お前、所有してんの?」

その言葉は、かつての社会で投げかけられた「持ってないの?」と同じくらいの圧力を持っていた。

「ここでは、みんな自由だろ?」

「じゃあ、そのラグも共有財産?」

「……いや、でも、俺が持ち込んだものだし」

小さなやり取りが、じわじわと空気を変えていく。言葉にしなくても、誰がどこにいついて、どこを避けるか――そうした“気配の地図”が、人々の間で暗黙に更新されていく。

誰もが自由であるはずなのに、誰かを裁く側に立とうとする――そんな無意識の構図が、村のそこかしこで見え始めていた。

タクミがぼそっと言ったことがある。

「自由ってさ、もしかして、むずいんじゃねえの……」

その言葉に、藤沢は返せなかった。

神崎は、明らかに忙しくなっていた。

村のあちこちで人間関係の調整に追われている。以前は、のんびりと人々の間を歩き、誰かの話に耳を傾けたり、子どもと川辺を散歩したりする姿が印象的だった。だが最近は、常に誰かに呼ばれ、誰かに相談され、立ち止まる暇もないように見えた。

誰かが酒に溺れれば、その夜のうちに話を聞きに行く。恋愛のこじれには優しく介入し、共有物をめぐる不満には丁寧に耳を傾ける。最近では、些細な道具の使い方や、時間帯の音の問題、あるいは「誰がどこに長く座っているか」までもが、話し合いの議題になっていた。

自由で、争いのないはずの村。

それが、いつの間にかトラブルで埋め尽くされ始めていた。

ドラッグに手を出し、挙動が不安定になっている者。神崎に異常な執着を見せ、「自分に意味があるのか」と泣き続ける者。昼間から酒に酔い、数日間風呂に入らず朦朧とした目で歩く者。そして、村の外れの小高い丘の木陰で、ひっそりと命を絶った一人の男。

彼の小屋から見つかったノートは、小さなテーブルの上に置かれていた。何ページかめくった先に、こんな一文が残されていた。

「ここには自由がある。でも自由って、自分で自分の価値を決めなきゃいけないってことだった。働けば誰かに感謝された社会は、実は僕にとって“逃げ場”だった。あそこでは、役割が与えられていた。褒められることも、叱られることも、全部“意味”があった。でもここには、それがない。ただ生きてるだけじゃ、誰にも必要とされない。……もう、わからない」

夜、藤沢は眠れなかった。

目を閉じるたびに、あの男の最後の言葉が浮かんでくる。

思わず声が漏れた。「なんでだよ……」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
あの男か。それとも、ここに来た意味を信じようとしていた自分自身か。

その夜遅く、藤沢は神崎の小屋を訪れた。戸をノックすると、彼女はすぐに出てきた。夜の風が静かに吹き、ふたりはそのまま外に並んで座った。

藤沢はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと語った。

「……働くってさ、誰かに認めてもらえるってことだったんだな。皮肉だけど、それを必要としてた人間にとっては……あの社会って、“救い”だったのかもしれない」

神崎は少しだけ目を伏せ、そして静かに頷いた。
「……私、間違っていたのかもしれません」
その言葉は、川のせせらぎよりも静かだった。
「この村なら、人は救われると信じていた。でも、幸せじゃない人達もいる……私は、設計を間違えたかもしれない」

藤沢はその横顔を見つめた。強く、完璧に見えていた神崎の瞳に、微かな濁りが浮かんでいる気がした。
何かが、壊れかけていた。

風が、木々のあいだをさらさらと抜けていった。虫の声が、ふたりの沈黙を包み込む。

自由とは何か。幸福とは何か。
この村が抱え始めた問いは、かつての都市と同じくらい重く、深く、そして解のないものだった。

少し経ち、スイ、タクミの二人も訪れた。

「……なあ神崎。この村、いくら何でもトラブルが多すぎないか?」

藤沢の問いに、神崎は少しだけ目を伏せ、やがてゆっくり頷いた。

「正直に言います。今、この村は不安定です。みなさんが来るより前、ちょうど一年ほど前から、少しずつ空気が変わり始めていました。最大の原因は、人数の増加だと考えられます」

「この村は、もともと少数の静かな共同体でした。シンプルで、干渉がなく、誰もが自然体でいられた。でも今は、五百人近くになっている。その結果、村の中に“クラスタ”が生まれ始めています」

「クラスタ?」とタクミが顔をしかめる。

「考え方や価値観が近い者同士が、自然と集まるんです。そして今、もっとも強い影響を持っているのが――“ネオヒッピー”と呼ばれるクラスタです」

「実感したことないけどな。そんなクラスタなんて」とタクミ。

「そうですね。あまり集団で動くことはありません。彼らの中には“仮想人間”としてこの村に現れている人達も一部います。」

「仮想人間? 都市の連中が娯楽でやってたアレか?」

「はい。仮想人間インターフェースを使い、完全にこの村と同期された仮想空間に入るのです。同時にドラッグを使用する方もいます」

「同期って……?」とスイが問う。

神崎はうなずいた。

「もともと仮想人間は、人工的に造られた仮想空間の中で活動していました。でも今、彼らがいるのはそういう“空想”ではない。私たちが生きるこの村と、完全に同期された“仮想村”です」

「……どういうことだ?」と藤沢。

「この村には、至るところにカメラとセンサーが設置されています。光の加減、風の揺れ、人々の動きや会話。それらすべてがリアルタイムでデータ化され、仮想空間に反映されている。つまり彼らは、仮想の身体で、この村を歩き回っているのとほぼ同じです」

「オレたちのこと、見えてるのか?」とタクミ。

「はい。彼らには私たちが見えています。声も動きも、全てリアルタイムで。けれど皆さんには、彼らの姿は見えません。必要があれば、ホログラムとして姿を見せることもあります」

スイが小さく息をのんだ。

「……ってことは、その人達、見えないまま村の中にいるわけ?」

「そうです。透明なまま、空間を共有している。彼らの一部は自宅や仮設の小屋などからアクセスしていますが、リアルに集まる場を持つこともあります。彼らの活動は、現実と仮想のハイブリッドなんです」

「やばいな」とタクミが吐き捨てた。「そいつらがこっちのこと見てるわけだろ?」

神崎は静かにうなずいた。

「見えない誰かに覗かれながら、オレたちはここで生きてるわけだ」と藤沢が言った。

「はい。一部のネオヒッピー達は、この村を自由に動き回っています」

その言葉に、三人は黙り込んだ。

見えない“誰か”と、生きるということ。

それが、いつの間にかこの村の日常になりつつあった。

「つまり……今も、そいつら村の中を歩き回ってるってことかよ?」

タクミが眉をひそめると、神崎は静かに首を振った。

「いいえ。今この場には誰もいません。私は、視認できます」

その一言に、三人はほっとしたような、それでも拭いきれない気味悪さを抱いたまま、互いの顔を見た。

「けどさ、実際はほとんど“いる”のと変わらないんだろ?」と藤沢。

神崎は頷いた。

「そうです。彼らが入っている仮想空間は、完全にこの村と同期されています。空気の流れ、人の動き、光の変化、すべてリアルタイムで反映されている。だから彼らにとっては――ここに“いる”のと同じなのです」

「姿が見えないだけで、今この瞬間も、村の中を歩き回ってるってわけか……」スイが息を呑んだ。

「それで“共に生活してる”って思ってるわけ? 透明なまま?」

「はい、彼らには彼らなりの考え方があります」

「……なんかちょっと怖いな」とスイ。

「そんなもん、自由でも共生でもないだろ。」と藤沢。

神崎は否定しなかった。

「彼らの意図がどうであれ、あなたたちにとってそれが“圧”や“不快”であるなら、それは事実として、受け止めなければなりません」

「しかも、そういうやつらが“本当の村はあっちだ”って思ってるんだろ?」タクミが口を尖らせた。「ここでリアルに動いてる俺達は、ただの舞台装置かよ」

「彼らはそう考えていない、と言います。ただ……実際、どう見ているのかまでは、私にも測れません」

藤沢がぽつりと呟いた。

「結局、自分の欲望や理想の為に他者を踏みにじる。どこに行っても同じだな」

神崎は目を伏せ、やがて、静かに言った。

「私も、それを懸念しています。理想のために、誰かの現実を踏みにじってしまう構図は……どこかで断ち切らなければならない」

風が一度、強く吹いた。木々がさわさわと揺れ、焚き火の音が遠くから聞こえてくる。

タクミがぽつりと呟いた。

「どうして、どこも上手くいかないんだろうな」

スイは答えなかった。ただ、小さく肩をすくめて遠くを見つめた。

藤沢が、口を開いた。

「……やっぱり、どこにも楽園なんてなかったんだよ」

神崎が顔を上げた。

「都市もここも。片方は最適化されすぎて人間が死んだ。もう片方は自由すぎてカオスになり人が壊れていく。」

誰も反論しなかった。

スイもタクミも、ただ黙って夜を見ていた。

神崎だけが、まっすぐ藤沢を見つめていた。そのまなざしには、どこか哀しみと希望の両方が宿っていた。

夜は深まっていった。、虫の声だけが、一定のリズムで響いていた。

しばらく沈黙が続いた後、神崎が再び口を開いた。

「……現在、ネオヒッピーは約六十名。対抗する保守派が約四十名。村の中で明確に“思想的に動いている”のは、このふたつのグループです」

「その他の四百人近い村民は、中立を保ってはいますが、日々の会話や空気の中で、少しずつどちらかに影響されつつあります」

「ネオヒッピーは、完全な自由を理想としています。規律も秩序も計画も持たない。」

「一方、保守派は、もともと都市で成功を収めた者たちでした。企業経営者、官僚、研究者……しかし何らかの理由で都市を追われ、ここに流れ着いた」

「彼らはここでも、ある程度の“枠組み”を求めています。役割分担、リーダーシップ、最低限のルールと秩序。自由にしていても、共同体には調整が必要だと考えている」

「要するに、“自由に生きたい”ネオヒッピーと、“形を作りたい”保守派の間に、思想の深い断層があるということか」藤沢がまとめるように言った。

神崎は頷いた。

「はい。これまでは、互いに距離を取りながらも衝突は避けられていました。しかし、最近はそのバランスが崩れ始めています」

「崩れ始めてるって……具体的に?」タクミが身を乗り出す。

「ネオヒッピー側の一部が、保守派への反発から共有スペースのセンサーや端末に“干渉”し始めています。」

「保守派も黙ってはいません。仮想アクセスの制限を求める声が上がり、対抗的な行動が出始めています」

「激しい衝突は?」とスイ。

「今のところ、激しい衝突はありません。でも、水面下では明確に“敵意”が育ってきている。誰かが何かを壊せば、連鎖的に反応が広がるでしょう。私が懸念しているのは、その臨界点です」

「お前は、どっち側なんだ?」とタクミ。

神崎は、迷いなく答えた。

「私は、どちらにも属していません。どちらの声も聞いていますし、対話を続けています。ネオヒッピーの中には、私を精神的支柱のように思っている方もいます。保守派の中にも私を評価してくれる人もいます」

「でも、そのバランスが……」藤沢が言いかけると、神崎はわずかに目を伏せた。

「……崩れつつあります。私は両方の橋であろうとしていますが、どちらの信頼も、微妙に揺らぎ始めている。このままでは、非常にまずい状態です」

藤沢は拳をぎゅっと握りしめた。
「なあ、神崎……お前が悲観的になったら、俺たちどうすりゃいいんだよ」
唐突な言葉だった。けれど、堰を切ったように感情が流れ出した。
「信じてたんだよ。お前がいれば、ここは大丈夫だって。やっと居場所を見つけたと思ったんだよ……」

「……私も、人間に生まれてきたかったです」
ぽつりと、神崎が言った。

「そしたら、人間の気持ちを……本当の意味で、理解できたと思うから」

誰も言葉を返せなかった。

「ところでさ」
藤沢が不意に切り出した。
「ネオヒッピーってリーダーとかいるのか?」

神崎は少しだけ間を置いて、淡々と答えた。

「はい。中心的な存在はリナさんです」

「……え?」

「えっ、あの人?」
スイが食い気味に聞き返す。
「前に会った、あの綺麗な子が?」

「うそだろ……」
タクミも思わず呟いた。

神崎はうなずいた。

「はい。リナさんです。ただ、正確にはリーダーというより、“慕われているうちに中心になっていった”という形です。本人にその自覚はあまりありません」

藤沢たちは顔を見合わせたまま、言葉を失っていた。

「実は私もリナさんとはよく話します」
神崎は続けた。
「今、ネオヒッピーはかなり人数が増えていて、内部でも考え方に違いが出てきています。一枚岩ではありません。リナさんは、仮想人間やドラッグの使用には反対しています」

「え、でも……そういうことしてるやつら、けっこういるって聞いたけど?」

「ええ。彼女が望んだ形ではないんです」
神崎ははっきりと答えた。

「リナさんは、ただ人々の幸福や自由、愛を本気で考えていた。それに惹かれた人が自然と集まり、いつのまにか“ネオヒッピー”という名前がつきました。けれど、集団が大きくなると、やがて一部が過激な方向に逸れていった。今では、リナさんの意志とは無関係に動く人たちもいます」

スイがぽつりと言った。

「それ……本人は、つらくないのかな」

神崎は少しだけ目を伏せて言った。

「ええ……きっと、つらいでしょうね」

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