[第二話]カオス村の人々

第二話 ゼロポイント

「……さて、死ぬか。」

藤沢リョウは、高層ビルの入り口に立っていた。
手には何も持っていなかった。バッグもスマートレンズも、もう必要なかった。
昨日と同じ靴。擦り減ったソールの感触が、妙に生々しく足裏に伝わってくる。昨日と同じコート。襟元はわずかにほつれ、背中には誰にも気づかれない染みがある。昨日と同じ空っぽの心。その奥には、ただ沈黙と、疲労だけが沈殿していた。

都市の風は冷たくもなく、温かくもなかった。
それは都市気象AIによって自動調整された“快適気温”で、万人にとって平均的な幸福感を提供するよう設計されている。だが、藤沢にとってそれは、体温を一切変動させない無関心な風だった。

通りを行き交う人々は彼を見なかった。

見ないというより、“視界に入れてはいけないもの”として、自然と回避されていた。都市OSに連携したスマートレンズは、スコアの低い個体を「精神的不快リスク」として自動的にぼかす機能を備えている。
藤沢は、いまや“ぼかされた存在”になっていた。

彼はため息ひとつつかず、無言でビルへと入った。
かつて、彼はこのビルの屋上に何度も登ったことがある。学生時代、同級生と夜景を見に、あるいは仕事のプレゼン前に精神を整えるため、あるいは……ただ風を感じに。

だが、今日の目的は違った。
屋上に行くためではなく、終わらせるためだった。

エレベーターの前に立つ。
扉は無機質な静音で開く。内部の鏡には、彼の顔が淡く映った。目に光はなく、表情は限界まで希薄化されていた。だが、彼がボタンを押そうとした瞬間、鏡の中の文字が浮かび上がった。

──あなたの精神安定スコアは警戒レベルに達しています──
──屋上へのアクセスは制限されました──
──速やかに帰宅してください──

数秒間、藤沢は文字を見つめたまま動かなかった。
やがて、ほんのわずかに口元を歪めて、小さく笑った。

「……死ぬ自由さえないのかよ。」

声には力がなかった。

死ぬことすら、この国では“管理対象”だった。
精神の異常は即座に検知され、アクセス権が制限され、予定外の行動はあらかじめ阻止される。自殺は“予測可能なエラー”として、事前に管理の対象になる。
それがコスモス国の“優しさ”だった。

神崎がいた、あの時のビルの屋上は、都市の中でも古く、監視の甘い区域にあった。
だから、ほんの少しだけ、“死ぬ自由”が残っていたのかもしれない。

数秒黙って立ち尽くしたのち、藤沢は踵を返した。
ゆっくりとロビーを出ていく。
それは自分の意思ではない。
この都市では、“死ぬこと”ができないよう、静かに設計されているだけだった。

藤沢は、都市の風景のなかへと溶けていった。
無音で、無感情で、ただ透明に。

彼は自室へと戻った。
マンションのエレベーターのドアは彼の存在を数秒遅れて認識し、部屋のスマートキーは反応に若干のラグを見せるようになっていた。システムは彼を、静かに“排除すべき人間”として処理し始めている。

部屋に入ると、自動照明が彼の動きを感知して灯りをともした。
何も命じていないのに、壁面のスクリーンが音もなく起動する。都市のニュースが自動で流れ出す。藤沢はコートを脱ぎながら、その音に耳を貸していた。

「本日、信用スコアの大幅な低下により失職した元会社員が、市内の公共スペースで暴動を起こしました。警備ロボットが迅速に制圧し、負傷者はゼロ。現在、当該市民は拘束されています。」

画面が切り替わり、地面に押さえつけられている男の姿が映った。
藤沢は目を細めた。

「……マジかよ。」

それは、かつての同僚だった。几帳面で、どこか生真面目すぎるところはあったが、誠実で努力家だった男。どんな仕事にも真摯に向き合っていた。だが、一度スコアが崩れ始めると、その誠実さは“柔軟性のなさ”とラベルを貼られ、社会から一気に弾かれていった。

反逆も、自殺も、この社会では“狂気”ではない。
抑圧と最適化の果てに、それらは当然の帰結として現れる。

目をそらすことなく、藤沢はスマートレンズを操作した。
ふと思い立ち、「カオス村」と検索欄に打ち込む。

検索結果が瞬時に表示された。

《カオス村:都市外に点在する非認可居住区。労働・貢献活動から離脱した者たちによって自発的に形成。行政による統治・支援は行われておらず、実質的に不介入。正式な記録は存在せず、治安・衛生面の保証もないため、立入は推奨されない》

《信用スコアゼロでも暮らせる村》《秩序の崩壊》《自殺希望者の避難所?》《都市文明の敗北例》

コメント欄には、嘲笑と敵意が入り混じった言葉が並んでいた。

《行ったら終わり》《怠け者の集会場》《文明捨てた原始人たち》

だが、藤沢は無表情のまま読み続けた。

「……カオス村、か……」

その名は知っていた。都市の外に実在する、制度外の居住区。
だが、関わる気はなかった。ただの遠い世界の話だと思っていた。

あの女――神崎が、それを口にするまでは。

なぜ彼女は、俺に何度も接触し、カオス村に誘ったのか。
それが、今になって妙に引っかかっている。

そしてもう一つ――
神崎のような女が、あの場所にいること自体、許されるはずがない。

そのとき、室内スピーカーが低く鳴った。

「あなたの信用スコアおよび社会貢献スコア、精神安定スコアは最低基準を下回りました。本日をもって住居契約は自動解除されます。」

壁面のスクリーンが切り替わり、契約解除の画面と、退去手続きのカウントダウンが映し出される。
期限は“本日中”。拒否権はない。

藤沢は数秒、何も言わなかった。
そして、声を殺すように、乾いた笑いを漏らした。

「……生きる場所も、死ぬ場所もない。よくできた仕組みだ。」

その言葉に、応える者はいなかった。

ホテルにも拒否され、居場所のない身体は夜の街をさまよい始めた。
都市の照明はあくまで均等に、無駄なく、そして冷たく辺りを照らしていた。AIカメラが歩行速度や視線、姿勢を読み取りながら藤沢の異常性を探知しているのがわかる。
スマートレンズの隅には、常に赤い警告が点滅していた。

「あなたの現在位置は安全指数の下限を下回っています。安全な宿泊施設への移動を推奨します。」

推奨、という言葉がいつしか“強制”に変わることを藤沢は知っていた。
だが、その“推奨された場所”には、もはや彼は泊まれない。信用スコアが低いというだけで、都市は彼の身体の居場所すら認めてくれなかった。

足が向かうままに、藤沢は駅の地下通路を抜け、高架の影へと入り込んでいく。
しだいに人通りが減り、照明も暗くなる。スマートレンズが「この区域は都市推奨行動範囲外です」と警告を発したが、藤沢は手で通知を払いのけた。

そして──彼は、たどり着いた。

都市の東端、高架下の一角に“ゼロポイント”と呼ばれる場所がある。
制度からこぼれ落ちた者たちが、日々そこへ流れ着いていた。

段ボールの寝床。ビニールシート。薬に沈んだ目と、焦点の合わない笑い声。
家があるはずの人間もいる。ただ、ここでしか息ができないのだ。

この都市では、ほとんどの労働がAIによって代替可能だ。
それでも、“働かなければならない”という建前だけは生き残っている。
都市は、人間が働くための“制度上の枠”を無理やり維持し、その中で再起を促してくる。

だが、スコアが一度落ちた人間には、その枠すら届かない。
仕事の門は閉ざされ、機会も、信用も、最初から剥奪されている。
努力を求められながら、努力する場所はどこにもない。

それでも“働ける状態”と判断されれば、支援は打ち切られる。
住居を失い、食料を失い、やがて命を失う。

ゼロポイントには、そんな者たちが集まってくる。
その死を、都市は「不可避な統計値」として処理するだけだった。

その中で、ひとりの男が座っていた。
ぼろぼろの布をまとい、足元には空のカプセルケース。手には、まだ封を切られていない錠剤が握られていた。男の目は、どこにも焦点を合わせていなかった。

藤沢は無言で立ち止まり、しばらくその男を見ていた。
そして、ゆっくりと声をかけた。

「……やめとけ。捕まるぞ。」

男は反応を示さなかった。
しばらくして、ぎこちなく顔を上げた。頬はこけ、唇は乾いていた。その顔に“怒り”や“悲しみ”はなかった。ただ、すべてを終えてしまった者の、空虚だけがあった。

「知ってるよ。どうでもいいだろ。捕まったって、もう行く場所もないし、戻る場所もない。……この国じゃ、生きてる意味、ないだろ?」

藤沢は返す言葉を持たなかった。
男の言葉に真っ向から否を突きつけられるような強さも、逆に説得する力も、藤沢自身、もう失っていた。

その奥で、地べたに座り数人のグループが話していた。

「……よかったら、こっち来ない?」

ふいに、ひとりの青年が声をかけてきた。
顔立ちは整っていたが、その目には、言葉にすらならない絶望が、静かに影を落としていた。笑ってはいたが、どこか“形だけ”のような、そんな笑みだった。

「オレはタクミ。」

藤沢はわずかにうなずき、そばに腰を下ろした。
そこは、誰に許されたわけでもない、けれど“拒まない”場所だった。

そこにいた人々は、年齢も服装もバラバラだった。
だが共通していたのは、“都市に居場所を失った者”だった。どこか疲れ果て、どこか諦め、それでもわずかに言葉を交わす意思だけは持っていた。

やがて、ぽつぽつと語りが始まった。
誰に求められたわけでもなく、自然にこぼれるように。

「俺? 元は大企業のCEOだった。再エネ事業やっててさ、環境データの収集精度でちょっと誤差が出た。AIに“情報信頼度が低い”って判定された瞬間だよ。取引先が一斉に契約打ち切り。資金も凍結。信用スコアが雪崩のように崩れていった。気づいたら、何もかも終わってた。社会は、俺に言い訳すらさせなかったよ。」

「……ずっと主婦でした。働かないってだけで“非生産”と判定されて、スコアも下がっていって……
そしたら夫が、“同居でスコアが下がる”って理由で離婚を申請してきたんです。
もちろん、処理は全部AI。私は“適正なし”って、ただ切り捨てられました。」

「俺はスコアの低い親のせいで、進学申請が拒否された。“家庭不適合”ってラベルひとつで、未来への道が閉ざされた。兄は家を出て、父は行方不明になった。俺は、“社会に向いてない家族”ってデータに分類された。」

誰も相槌を打たなかった。
それは、聞いていないのではなく、“聞くことに慣れすぎていた”からだった。

さらに、少し年配の男が言った。

「俺は……政治家だった。何期も当選して、政策もそれなりにやった。でも、途中から演説の原稿もSNS発信も、全部AIが最適化して出してくる。“これが一番ウケる”って理由だけで。気づいたら、自分の言葉がひとつもなくなってた。ただ、演じてただけだ。最後は支持率も自分も、何が本物か分からなくなった。」

そして、しばらく黙っていた若い女性が、小さく息を吸った。

「……私、スイ。どこに応募しても、全部AIに拒否された。“適性なし”って診断が出て、それだけで働けなかった。働けないと、スコアは下がる。何もしなくても、下がり続けるんだよ……生きてるだけで。」

その声には、乾いた絶望がにじんでいた。

「……だから、身体を売ろうとした。他に方法なんてなかった。でもすぐに警察AIに捕まって、逮捕。刑務所に入れられて、記録が残った。いま、スコアはマイナス。」

言い終えたあと、彼女はかすかに笑った。
笑ったというより、“笑いに似た顔”をした。

「……笑っちゃうよね。生きるために身体を売るなんて、って思ってた。でも今は、それすら“チャンス”だったんだって思う。」

誰も、それに続く言葉を見つけられなかった。

その話しを聞いて藤沢の思考は、いつしか過去へと沈んでいった。

──彼はかつて、AI設計の研究に携わっていた。
誰よりも技術を信じていた。だが、同時に誰よりも“限界”を理解していた。
学会では何度もこう訴えた。
「すべてを最適化すると人間が不幸になる」と。

だが、それは嘲笑と無視の対象だった。
「全人類が最適化されれば、幸福は保証される」。
そう断言した者たちが、いまやこの社会の骨格を作った。
そしてその社会が、いま目の前にいる彼ら──スコアを失った者たちを“存在しないもの”として扱っている。

「今のAIが人間を幸せにする……?」

藤沢はかすれた声で呟いた。

「そんなわけないだろ……」

その瞬間、かすかな違和感が胸に走った。
どこかが変だ。空気の流れが違う。

「……タクミは?」

さっきまで隣に座っていたはずの青年の姿が、いつの間にか消えていた。

藤沢は立ち上がった。
そして、暗がりの片隅にしゃがみ込んでいる影を見つけた。

タクミだった。
彼は背を丸め、何かを握っていた。手の中には、銀色のカプセル。
街中では販売されていない、強い中枢抑制剤。
都市内では所持しているだけで拘束されるはずのそれを、彼は、今まさに服用しようとしていた。

「やめろ!」

藤沢は反射的に駆け寄り、タクミの手からカプセルを叩き落とした。
金属の小さな音が、アスファルトの上で転がる。

「早まるなよ!下手したら死ぬぞ」

だがタクミは顔を背け、静かに言った。

「……放っとけよ……」

その声は、壊れたように弱く、空気に消え入りそうだった。

「俺なんて、最初から誰にも必要とされてなかったんだ。親にも、学校にも、友達にも。ずっと、“足りてない”って言われ続けてさ……最終的には、数値で証明された。俺は、生きる価値がないって。」

藤沢は言葉を飲み込んだ。
言い返すには、言葉が軽すぎた。
同情も、理屈も、意味を持たなかった。

だが、しばらくして口を開いた。

「違う。……少なくとも、俺は必要としてる。」

タクミは顔を上げた。赤くなった目で、信じられないものを見るように藤沢を見た。

「スコアなんて関係ない。俺はお前には価値があると思う。」

タクミの唇がわずかに震えた。
やがて、言葉もなく、その場に崩れるように座り込んだ。
顔を膝に埋め、声を殺して泣き始めた。

その姿は、都市が“最適化”という名のもとに切り捨てた、人間そのものだった。

スイが静かに近づいてきた。
何も言わず、藤沢とタクミの隣に腰を下ろす。その動作には、ためらいや躊躇はなかった。ただそこに“いる”ことを選んだような、自然な存在の仕方だった。

しばらく、誰も口を開かなかった。
都市のどこかで鳴る救急ドローンのプロペラ音が、わずかに耳に届いたが、ここには来ない。それは、ゼロポイントが“見捨てられた場所”であることの証でもあった。

藤沢は、ぽつりと呟いた。

「……カオス村、って知ってるか。」

その声は誰に向けたでもなく、ただ夜の空気に落としたような響きだった。

スイが、うっすらと頷いた。
タクミも、わずかにうなずいた。

「あそこに何があるかは、正直わからない。でも……」

「ここにはもう、何もない。」

その言葉は、都市に対する諦めではなく、自分自身に対する確認のようだった。
希望も、怒りもない。ただ、現実を受け止めた上での一歩。

タクミが、低い声で呟いた。

「……行く意味あるのか?」

その問いに、藤沢はすぐには答えなかった。
夜の街は、どこか機械の冷却音のようなものに包まれている。遠くから物流ドローンの通過音がかすかに響いた。

「わからない。だが、ここにいるよりマシかもしれない」

藤沢は静かに答えた。

しばらくして、スイがかすかに笑った。どこかで藤沢の声に懐かしさを感じていた。

「……私も、行ってみたい。」

スイの声には、恐れや期待といった感情がないように聞こえた。ただ、「行ってみたい」という事実だけが、真っすぐにそこにあった。

タクミも、それに続くように頷いた。
彼は言葉を発さなかったが、肩の力がほんの少し抜けたのがわかった。

その夜、ゼロポイントの片隅で、誰にも知られることなく、三人の人間が“この都市を出る”という、小さな決意を交わした。

行き先の地図もなければ、成功の保証もない。
それでも、彼らの中には確かに、静かな熱が宿っていた。

どこに行くかも、どうなるかもわからない。
だが──

「もうそれしか希望はない。」

その言葉は、誰が言ったわけでもない。
だが三人の心の奥で、同時に響いていた。

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