第三話 EXIT
朝の都市は、どこまでも均質だった。
空は人工的な晴天。天候調整AIが毎日同じ光量と気温、湿度を供給し、空の色すら統一されている。街路の隅々まで清掃ロボットが巡回し、落ち葉一枚も存在しない。看板も、建物の外壁も、全て規格化されていた。灰色。静寂。そして冷たさ。まるで世界全体が冷蔵保存されているかのような無菌空間。
藤沢リョウは、その中を歩いていた。隣にはタクミ、少し後ろにスイ。三人とも無言だったが、歩調は自然と揃っていた。話すべき言葉が、どこにもなかった。
彼らの足音だけが、コンクリートに規則正しく響いた。
都市の中心部から離れ、やがてビルの密度がまばらになり、舗装の質がわずかに粗くなる。無機質なパターンの繰り返しが微かに乱れ始め、地平線の向こうに違和感のような余白が現れる。
「……ここ、かな。」
藤沢が立ち止まった。目の前には、都市の外縁へと続く一本の舗装道路がある。その先には灰色のアーチ状の構造物が設置されており、上部には「EXIT」と記されたプレートが無表情に掲げられていた。
風が吹いていた。都市の中心部では決して感じられない自然な風──わずかな乱れが、かえって現実味を帯びていた。
「都市って、思ったより簡単に出られるもんなんだな……」と、タクミがぽつりと呟いた。
「もっと厳重なチェックとか、バリケードとかあるかと思った。」スイも軽く眉をひそめながら言う。
藤沢はじっと前を見つめていた。灰色のアーチの奥には何があるのか、彼にもわからない。ただ、ここが境界線であることは、肌で感じ取れた。何も説明のない“出口”。誰もいない“開放”。
ゲートの近くには監視カメラが多数設置されている。全方位型で、微かな動きにも即座に反応する最新式だ。だが警備員の姿はない。物理的な遮断機も見当たらなかった。
「……よし、行こう。」
藤沢がそう言うと、三人はゆっくりとアーチの下へ歩を進めた。誰かに止められる気配もなかった。金属音も警告灯もない。ただ、足元の舗装がわずかに変化し、都市の「内」と「外」を隔てていることを感覚で察知する。
だが──
突然、数メートル先で甲高い警告音が鳴り響いた。
〈スコア検出異常〉
無機質な女性の声。ゲート上部に設置された赤いランプが点滅し、声と同期するように光がリズムを刻む。
〈あなたの信用スコアは、都市外移動の基準を満たしていません。進行は認められません〉
「……え?」タクミが立ち止まる。
「止まれってこと……?」スイが警戒するように周囲を見回す。だが警備ロボットが迫ってくる様子もない。ゲートは依然として無言のまま、そこに在り続けていた。
藤沢は小さく息を吸い込んだ。予感はあった。だが、実際にこの瞬間が来ると、想像以上に重苦しかった。
「……都市は、出さないつもりなんだな。」
誰にともなく呟いたその言葉が、アーチの奥に吸い込まれていった。
「スコア? 移動の基準って……そんなの、聞いたことないけど……」
スイが困惑した声を漏らす。どこか呆けたような、現実感のない口調だった。
藤沢は無言でスマートレンズを指先で操作した。視界の端に、青白い数字が浮かび上がる。
マイナス14。
小さく、だが決定的な数値だった。
「……どういうことだよ。出るだけで、スコアがいるのか?」
呆然とした声が、都市の無機質な空気に吸い込まれていった。
隣でタクミも確認する。「俺、マイナス6……」
そしてスイが口を引き結びながら言う。「……私、マイナス21だった。」
三人は視線を交わし、それぞれの目に宿った微かな恐怖を感じ取った。
〈立ち止まらないでください。ここは移動制限区域です〉
再び無機質な警告音。そして──上空から、複数の小型ドローンの飛行音が迫ってきた。
「まずい、戻るぞ。」
藤沢が言い、三人は踵を返して駆け出す。足元の舗装がわずかに弾み、コンクリートが乾いた音を立てた。背後では赤い点滅光が増え、追跡の網が狭まってくる。
タクミが荒い息を吐きながら叫ぶ。「……こんなの、おかしいだろ! スコアが低いってだけで、どこにも行けないなんて!」
「落伍者に逃げ場がない社会……か。」
藤沢の声は低く、よく通った。しかしそこに怒りの熱はなかった。あったのは、冷たい現実への確信だった。
──彼は知っていた。
藤沢リョウは、かつて都市設計の中枢にいた。AI開発と倫理設計の研究者として、スコア制度の是非を巡る議論に加わり、2042年には論文で明確に主張していた。
「AIは、人間の幸福を未来で考え続ける存在であるべきだ」
それが彼の思想だった。目先の快適さや秩序ではなく、「本質的な幸せ」こそが指針でなければならないと訴えた。
だが、彼の声はかき消された。スコアは拡張され、幸福の定義は数値に置き換えられ、個人の可能性は日々、評価の波に沈んでいった。
──そして今、最悪の未来が現実になった。
「……避けたかったんだよ。こうなるのだけは。」
小さく漏らした独白は、走る音と風の中に消えていった。
都市は人を選別する装置に変わっていた。都市の中には、選ばれない者の居場所はない。
藤沢はふと後ろを振り返る。四機のドローンが、静かに、だが執拗に距離を詰めてくる。無音の威圧。意思を持たぬ暴力。
スイが息を切らしながら言う。「……ゼロポイントに戻るしか、なさそうだね。」
藤沢は頷きもしなかった。それすら、虚しく思えた。
ゼロポイント──もはや安寧ではないと知っている。そこも、排除の対象になるのは時間の問題だった。
「逃げ場がないように、設計されてる。」
それは告発でも、叫びでもなかった。ただの、事実だった。
彼は、こうなることを薄々わかっていた。
都市は、かつての彼の思想を踏みにじりながら、静かに動き続けていた。
ゼロポイントに戻った藤沢たちは、しばらく何も言わずに座っていた。
段ボール、色褪せた毛布、崩れかけた壁と鉄骨の影。コンクリートの割れ目から生える雑草さえ、この場所では貴重な“自然”に思えた。
スイが腕を抱え、身を縮める。タクミは黙ったまま足元を見つめ、何度も何度も自分のスコア表示を指先で確認していた。だが、数値が変わることはなかった。
藤沢も黙っていた。ここに逃げ込んだ者たちは皆、同じように沈黙していた。語る言葉が尽きたのではない。語っても、何も変わらないと知っていたのだ。
──だが、その静けさは長くは続かなかった。
「警告。このエリアは危険思想者との接触地点に指定されました」
乾いた機械音が、空気を裂くように響いた。
藤沢が顔を上げた。反射的に立ち上がる。
高架下の奥、薄暗い鉄柱の影から現れたのは──警備ロボットだった。
グレーの装甲に覆われた鋼鉄の巨体。腕部には非殺傷用の拘束装置、肩には警報灯、胸元のパネルには都市の徽章が刻まれている。頭部にあたる部位には複数のセンサーが瞬き、視覚・熱感知・音波解析すべてを統合して対象をスキャンしていた。
そして、その後ろにも──さらに数機。左右の路地にも、ゆっくりと音もなく姿を見せていく。
完全に、包囲されていた。
「滞在者の識別を開始……」
ロボットの声が続く。センサーの光がそれぞれの顔を照らし、数秒後──
「識別完了。あなた方は現在、都市規範C-49条“思想危険度”に基づき、拘束対象と認定されました」
その場にいた全員が凍りついた。
「思想……危険度……?」スイが、喉の奥でつぶやくように言った。
「なにそれ、思想だけで逮捕されるのか……?」タクミの声は震えていた。
「つまり……都市を出ようとしただけで、もう犯罪ってわけか」
藤沢が言った。静かに、だが怒気を含んで。
都市は、もはや行動すら要らなかった。考えただけで、疑われただけで、分類され、排除される。それがこの2050年の社会だった。
「……クソが」
藤沢は舌打ちをした。
ロボットたちが一歩ずつ距離を詰める。肩のパトランプが赤く明滅し、警告音が断続的に鳴る。逃げ道はなかった。
ロボットが一歩、近づいた。足元のアスファルトが微かに軋む。
「従属処置に従ってください。拒否はさらなる処分対象となります」
無表情の警告音。だが、その言葉の裏には、冷酷な運命が張りついていた。
藤沢は周囲を見渡した。高架の柱、崩れた壁、廃材の山。ルートは少ない。だが、逃げ道はある。
「走るぞ。今すぐ」
「は、走るって……!?」スイが戸惑う。
「いいからついて来い!」
藤沢は一気に走り出した。迷いはなかった。高架下を抜け、崩れかけた建物の壁を伝って進む。狭い隙間に身体を滑り込ませると、空気が冷たく変わった。
スイとタクミも、迷いながらもその後を追う。廃材に躓きながら、息を切らしながら、それでも足を止めなかった。
背後では、警備ロボットたちが一斉に機械的に動き出す。
「逃走行動を確認。対象の思想危険度をレベル4へ更新。非従属個体と認定。拘束優先度を上方修正」
無慈悲なアナウンスが、夜の街に鳴り響く。
街の音が、警報とドローンの羽音に塗り潰される。頭上を黒い影が飛び交い、光のラインが彼らを追いかけるように地面をなぞる。
それでも、藤沢は怯まなかった。
「この道、盲点だ。ドローンの死角になる。照度センサーもここは機能しない……まだ撒ける」
「なんでそんなこと……」タクミが叫ぶように聞く。
「俺が設計に関わってたからだ」
短く、それだけ言って、さらに走る。路地の奥、鉄扉を蹴破り、裏の空調ダクトに身を滑り込ませる。汗が首筋を流れ、手足は黒い油と埃に汚れた。
配管の隙間を這い降り、地下へと抜ける点検口を探る。スイが息を切らしながら言った。
「なんで、そんなに道を知ってるの……」
「2042年まで、都市AIの中枢部にいたんだ。逃げ方も、隠れ方も、全部知ってる」
短く、静かな答えだった。
だが、追撃は止まらない。背後からはロボットの無機質な足音が迫り、ビルの壁にその警告音が反響する。
「最終警告。非従属行動は、存在価値の逸脱と見なされます──」
そのときだった。
突如として、空気が変わった。
音が──消えた。
藤沢が振り返る。目にしたのは、信じがたい光景だった。
追ってきていたロボットのすべてが、まるで一斉に電源を落とされたかのように、動きを止めていた。関節が硬直し、赤いセンサーの灯りも消えている。
「……止まってる?」
タクミが声を震わせる。
誰も、理由がわからなかった。ただ、確かなのは、それが偶然ではないということだった。
その静寂の中で、ひとつだけ音がした。
足音。軽やかで、柔らかく、しかし決して曖昧ではない足取り。
高架の向こうから、それは姿を現した。
ワンピースが風に揺れる。春色の、季節外れの柔らかい布地。人工の街には不似合いな、夢のような色合い。
現れたのは──神崎だった。
「よかった。今回はなんとか機能停止できた」
その声は、はっきりと耳に届いた。
スイが息を切らしながら立ち尽くす。「あなた……もしかして」
神崎は、ふっと微笑んで頷いた。
「ええ。お察しの通りです」
だが、藤沢は口をつぐんだままだった。動揺も驚きも見せない。ただ、じっと彼女を見つめていた。
──彼は最初に会った時から気づいていたのだ。神崎が“人間ではない”ことに。だが、それを言葉にはしなかった。
神崎はロボットたちに背を向けたまま、そっと手を掲げた。滑らかな動作。それだけで、背後の機械群はまるで“風景の一部”のように、完全に無反応になった。
「行きましょう。今なら、外に出られます」
その言葉に、藤沢たちは無言で頷いた。逃げ道などなかったこの都市の中で、今この瞬間だけは、奇跡のように風が通っていた。
そして彼らは──神崎の背に続いた。
都市という“檻”の外へ。