[第七話]カオス村の人々

第七話 神の死

朝の光が、まだ湿った土の表面をやわらかく照らしていた。
草木に残る露が、小さな光の粒となってきらめき、遠くでは鳥のさえずりが静かに空を漂っていた。小川のせせらぎも、まるで誰かの気配に耳を澄ませるように、控えめに鳴っていた。

藤沢、スイ、タクミ、そして神崎。四人は、村のあちこちにある「意見の震源地」を巡るため、朝の道を歩いていた。
神崎の提案だった。村に根を張り始めた三つの立場――保守派、ネオヒッピー、中立層――の声を、いま一度、正面から聞くべきだという。

「……なんか、気が重いな」

タクミの呟きに、誰も応えなかった。
けれどその言葉は、湿った土のにおいと一緒に、じわりと胸に染みてきた。

最初に向かったのは、南の一画――保守派が静かに暮らす一帯だった。

そこには、他とは違う空気が流れていた。
敷かれた石道はまっすぐで、道端の工具も整然と並べられていた。作業用ロボットたちは無言で自律稼働していた。秩序が、ささやかだが確かに、この場所に根を張っていた。

「……きれいにしてるね。ここだけ、なんか、呼吸が揃ってる感じがする」

スイがぽつりと漏らした。
藤沢は頷いた。自由の中にも、律動がある。そんな風に感じられる場所だった。

焚き火のまわりに座っていた数人が、神崎に気づいて軽く頭を下げた。
立ち上がって歩み寄ってきたのは、白髪混じりの六十代半ばの男。神崎が小声で伝える――元・都市政策局の高官だった人物だという。

「お時間をいただき、ありがとうございます」

男は静かな口調で挨拶すると、火のそばに腰を下ろした。四人も続いて座る。
しばし、火の音だけが風にかき消されず残った。

「……このままでは、村は崩れます」

男の声は、あまりに静かで、逆に耳に刺さった。
だが語気に怒りはなく、むしろ祈るような沈黙が宿っていた。

「神崎さん。私はあなたの調整力を高く評価しています。公平で、誰の側にも与しない。その姿勢があったから、この村はここまで保たれてきた。……でも、それも、そろそろ限界なんじゃないでしょうか」

神崎は何も言わず、ただ黙っていた。

「“自由”は、もちろん素晴らしい。私も最初は、心を打たれました。都市で忘れた感覚が、ここにはあった。だけど――」
男は、焚き火の揺れる光を見つめながら、言葉を探すように続けた。

「――人間は、完全な自由には耐えられないんです。境界がなければ、誰かが他者を侵す。指針がなければ、誰かが道を誤る。そして今、村はその兆候に満ちている。誰かが逸脱し、誰かが傷ついている。見えないまま、確実に」

火の中で、ひときわ大きな薪がはぜた。
誰もその音を無視できなかった。

「だからこそ、私たちは“最低限の秩序”を提案している。共有スペースの使用ルール、暴力や破壊行為への対応、責任の所在。これは、誰かを縛るためじゃない。共同体を“守る”ためなんです」

男の声は、もはや懇願に近かった。
それは過去に破滅を知った人間だけが発する、骨の奥からの声だった。

次に四人が向かったのは、川沿いの小道だった。

両脇には畑やベンチが点在し、木陰では誰かが読書をし、誰かが昼寝をしている。小型ロボットが静かに掃除を行い、水を撒いていた。風は心地よく、鳥の声が遠くでささやいていた。

ベンチに腰掛けていた若い女性が、神崎たちに気づき、立ち上がった。
文庫本を手にしたまま、少し戸惑いながらも歩み寄ってくる。二十代半ば、素朴な服装で、表情はどこか不安げだった。

「……少し、お時間いいですか」

神崎がうなずくと、彼女は小さく深呼吸しながら話し出した。

「最近、いろんな人に声をかけられるんです。“一緒に考えよう”とか、“こっちに来てくれたら安心だよ”とか……」

彼女は本を握りしめ、俯いた。

「どちらが悪いとも言えません。でも……こわいんです。選ぶことも、選ばれることも。私は誰かの側につくためにここに来たわけじゃない。ただ、静かに暮らしたくて……でも、その“静かに”すら、許されない気がして」

スイがそっと口を開いた。

「……あなたみたいな人、多いと思う。私も、気持ちわかるよ」

女性はスイを見て、少しだけ安堵したような微笑を見せた。
神崎は何も言わなかった。ただ、その場に立ち、すべてを受け止めていた。言葉ではなく、まなざしで。

風が吹き、木々の葉がわずかに揺れた。
どこかで、葉が一枚、静かに地面へ落ちていく。

その瞬間、藤沢は、村の奥に――音ではなく、“予感”のようなものを感じた。

なにかが、すでに始まっている気がした。

そして四人は、村の東へと歩き出した。

やがて、かすかな波音が耳に届き、視界が開ける。
白い砂浜。遠くでカモメの声が響き、雲ひとつない空が広がっていた。
風が頬を撫で、潮の匂いが淡く漂っている。

神崎が足を止めた。
「……ここで止まりましょう」

その瞬間、風の向きが変わった気がした。
空気が揺らぎ、砂の上に微細な光の粒が舞い始める。

そして、ひとり。
また、ひとり。

淡く光るホログラムが、次々に現れはじめた。

最初はぼんやりとした像だったが、数が増えるにつれて輪郭が明瞭になっていく。
やがて、浜辺には二十人近い人影が並び立っていた。

ネオヒッピーたちだった。

彼らは仮想人間として、この村に接続している。
肉体は村の一角の仮設小屋や自宅に横たえられ、意識だけがここに“在る”。

藤沢は息を呑んだ。
この人数が一度に現れるのを目にするのは初めてだった。

群れのなかから、一人の中年男性が前へ出て、神崎に目を合わせて会釈する。

「こうして姿を見せる機会を持てて、嬉しく思います」

男の声は落ち着いていて、凛としていた。

「私たちは、この村の一部です。
風の音も、光の揺らぎも、人の声も。
すべての感覚は、現実と同じように同期されています」

スイが口をひらく。

「……でも、なんで普段は姿を見せないの? なんか……隠れてるみたいで」

男はかすかに微笑んだ。

「一部の保守派の方々から、集団で行動すると強い反発があるのです。
摩擦を避けるために、普段はあえて姿を消しています。
けれど、我々はずっと、ここに在り続けてきました」

タクミが言う。

「配慮ってことか」

「はい。逃げているのではなく、配慮です」

今度は、若い女性のホログラムが前へ出た。
素朴な服装に澄んだ声。二十代後半ほどだろう。

「私たちは、ただ穏やかにこの村と共にあることを望んでいます。
肉体の場所は関係ありません。
この浜辺の風も、砂の温度も、私たちには“現実”なんです」

神崎が頷いた。

「彼らもまた、この村の一部です。
見えない時間があるだけで、“ここにいる”ことに変わりはありません」

藤沢は、光の人々を見つめていた。

透明で、だが確かにそこにある存在たち。

――分断は、もう目に見える形になっていた。

それは、もはや「起こるかもしれないこと」ではない。
すでに、“今ここ”に存在していた。

それから数日後の夕暮れ。

空は薄く濁り、風もなく、音のない奇妙な静寂が村を包んでいた。
その中で、不意に――金属がぶつかるような、乾いた音が響いた。

最初は一度だけ。
だがすぐに、二度、三度と連なり、やがて村のあちこちから、同じような音が断続的に聞こえはじめた。

藤沢が音の方へ向かうと、すでに始まっていた。

保守派の男たちが、無言のまま、センサー塔や通信装置、旧式カメラに鉄パイプやスパナを振り下ろしていた。
誰も声を発さず、まるで儀式のように、ただ黙々と破壊だけを繰り返していた。

鈍い衝撃音が村中に響く。
装置はひしゃげ、ケーブルが千切れ、破片が散っていく。
神崎の目がかすかに揺れた。――彼女にとっても、これは想定外だった。

「やめてください!」

神崎が駆け寄る。しかし、誰も顔を上げようとはしなかった。

破壊は執拗だった。
仮想空間と村を繋ぐ中継機器――通信中枢、識別ビーコン、体内タグ同期センサー……。
すべてが、沈黙していった。

その頃、一部のネオヒッピーたちは、仮想空間に接続していた。
自室のベッド、改装された廃屋の一角、屋根裏の秘密の空間――
インターフェースを装着し、現実を離れた彼らの意識は、突然の暗転に見舞われる。

風景が、すうっと消えた。
音が止まり、静寂が訪れ、ついには何もない“無”だけが残された。

そして、一人、また一人と――彼らは目を覚ました。

次の瞬間、扉が荒々しく開く。

「保守派だ……! センサー、全部やられてる!」

青年の叫びが、冷たい空気を切り裂いた。

一拍の沈黙。

「……あいつら、本当にやりやがったか」

ドラッグを服用しているネオヒッピーの男が呻くように呟いたその耳元で、小さなデバイスが振動する。
すぐに信号が送られる――

「接続遮断確認。原因は保守派による破壊。」

その情報は、ネオヒッピー全体に即座に伝わった。

あちこちの住居で、扉が一斉に開く。
彼らは皆、無言だったが――その目に宿る光は、同じだった。
怒り。屈辱。そして、切断されたという決定的な痛み。

もう、隠れている理由はなかった。
現実そのものに、向き合うしかなかった。

やがて広場では、保守派とネオヒッピーが向き合い、激しい言い争いが始まる。

「ふざけんなよ! なんの権利があって壊した!」

「ここは現実の村だ。薬と幻想に逃げてる連中に支配されてたまるか!」

言葉が火花を散らし、肩がぶつかり――拳が振るわれた。

「みんな、もうやめて!」
リナが叫びながら仲裁しようとする。
しかし、彼女の声はもう届かない。

どこからともなく人が集まる。
坂の上、林の中、小屋の影。全員が広場の中心を見つめていた。

そして――タクミが叫んだ。

「あれを見ろ!!」

金属音を鳴らしながら、巨大な工事用ロボットが現れた。
その足が地面を踏むたび、村がかすかに震える。

操縦席には若い男。ネオヒッピーの一人だった。
目は虚ろで、笑っているのか歪んでいるのか分からない。
――明らかに、薬物の影響下だった。

ロボットの両腕は広げられたまま。まるで、何かを受け入れるように。
そして、中央に――保守派の男が一人、混乱の中に立っていた。

彼はまだ、気づいていなかった。

「やめろ!! 止まれ!!」

藤沢が叫ぶ。走り出す。

「危ないッ!」

神崎の声と同時に、藤沢の体が強く押される。
地面に倒れ込む彼の目の前で――神崎が、ロボットの中央へと飛び込んだ。

「神崎さん!! 逃げてえぇぇぇぇッ!!」

スイの叫びが村を貫いた。

ドォンッ――金属音。
ゴオオオッ……というエンジン音。
誰かの絶叫、悲鳴、通信ノイズ。

「やめろ……やめろぉおおおお!!」

藤沢の叫びも、もはや届かない。

ロボットの腕が、ゆっくりと神崎を挟み込んでいく――

「神崎ィィィィィィィィイイイ!!!!」

ギチッ、ミシッ、ギギギ……

金属が、金属を砕くような音。
神崎の身体が、ひしゃげ、潰されていく。
人工皮膚が裂け、光の火花が散った。

時間が、止まった。

タクミは地面に崩れ落ち、スイは声もなく泣き続けていた。
藤沢は、動けなかった。何も、言えなかった。

リナは少し離れた場所で、呆然と立ち尽くしていた。
「……嘘でしょ……」
崩れるようにしゃがみ込み、顔を覆った。

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