[第一話]カルマ

第一話  桜の約束

戦争が始まったのは、半年前だった。

最初にそれを知ったのは、テレビのニュースだった。けれど、画面に映る爆発音や崩れゆく建物の映像を見ても、どこか現実味がなかった。まるで映画の一場面のようで、自分たちの生活とは別世界の話に思えた。

空はいつも通り明るく、朝になれば電車は動き、店は開き、人々は変わらず会社や学校へ向かっていた。
戦地の映像が流れても、それは“画面の中だけ”の出来事。レイにとっては、遠くの国の不幸な出来事でしかなかった。

だが、少しずつ街の空気は変わっていった。
駅には軍服姿の若者が目立つようになり、輸送車が幹線道路を占拠する光景が日常となった。
物流は滞り、食料や日用品が値上がりし、スーパーの棚が寂しくなっていく。
近所の誰かが徴兵されたという話を聞くことも増えてきた。

「まさか、うちの国が戦争に……」

誰もがそう言った。誰もが、どこかで現実を拒んでいた。

レイとリナは、そんな混乱の中でも、わずかな時間を見つけて会っていた。
ふたりは恋人だった。お互いの国が違うことなど、ふたりの間では問題にならなかった。
出会ったのは、友人に誘われた近所の飲食店だった。最初は何気ない会話だったが、すぐに意気投合した。

穏やかな春の午後、並木道を並んで歩いた。
桜の花が舞い落ちる中、ふたりはただ手をつないでいた。
言葉よりも、肌のぬくもりと視線の交差がすべてを語っていた。

けれど、戦争が始まってから、空気は一変した。
国境が封鎖され、往来が厳しく制限され、通信の自由すら奪われ始めた。
リナの住む地域では、外部との連絡はほとんどできなくなり、次第に彼女の声も届かなくなっていった。

最後に会えたのは、あの日。
桜の花が満開だった。
リナは特別な許可を得て、境界近くの中立地帯まで来てくれた。
ふたりは再会できたことに涙し、言葉を選ぶ暇もなく、ただ見つめ合った。

レイは、リナの肩を強く抱いた。
「約束だ。この戦争が終わったら、結婚しよう」
レイは願いを込めて言った。

リナは黙ってうなずいた。
声にすれば泣いてしまいそうだった。
風が吹いた。桜の花びらがふたりの肩に落ちた。
まるで別れを告げるように、静かに、ひらひらと。

それが、最後だった。

レイは母と二人で暮らしていた。

父は早くに亡くなり、母はずっと黙々と働いていた。多くを語らず、静かに、淡々と生きていた。

徴兵通知が届いたのは、ある曇った日の午後だった。

ポストに差し込まれていた灰色の封筒を見た瞬間、レイはすべてを理解した。
名前も印もない、ただの紙片。それでも、それが何を意味するか、この国に生きる誰もが知っていた。

この国では、徴兵を拒否すれば長期の懲役か死刑。
さらに、「思想的危険者」として家族までも処分されることがある。
黙って従うしかなかった。反論も、逃亡も、選択肢に入らなかった。

家に入ると、母が立っていた。
レイが封筒を差し出すと、母はただ一瞥し、何も言わず目をそらした。

出発の日。

制服に着替えたレイは、玄関で母と向かい合った。
何か言わなければと思ったが、言葉は見つからなかった。

「……行ってくる」

ようやくそれだけを口にして、母の手を握った。
母は無言のまま、小さくうなずいた。

駅には、多くの若者が集められていた。
無表情な顔、緊張した背中、機械のように整列する身体。
誰もが“個人”ではなく、“兵士”として扱われ始めていた。

列車に乗り込む直前、レイは一度だけ振り返った。
母は動かず、何も言わず、ただ立ち続けていた。

戦場は地獄だった。

銃声と怒号、泥と血、命令だけがすべてだった。
日が昇っても、沈んでも、眠る暇などなかった。

レイの上官は狂ったように叫び続けていた。

「奴らは俺の家族を殺した!見つけ次第、皆殺しだァ!」

顔は常に紅潮し、目は濁り、言葉に人間の理性はなかった。
部隊の誰もが感情を殺し、ただ命令に従って引き金を引く。

ある日、敵国の村を包囲せよとの指令が下った。

丘の上から、小さな村が見えた。
家々が燃え、民間人が叫びながら逃げ惑っていた。
レイはスコープをのぞいた。

「レイ、狙撃しろ!」

上官の怒声が響いたそのとき、レイの視界にひとりの女性の姿が映った。

(……リナ?)

信じられなかった。
なぜいるんだ。どうして。
レイの手が震えた。視線が定まらない。息が詰まる。

「撃てっ!何してる!」

レイは銃口をずらした。
上官の胸に照準を合わせ、引き金を引いた。

銃声。
上官が吹き飛び、血が舞った。

隣にいた兵士が叫び、銃を構えた。
レイは反射的に二発目を放った。その兵士は崩れ落ちた。

静寂。
だが、それは長くは続かなかった。

「反逆だ!撃て!」

後方から怒号が飛ぶ。
無数の銃口がレイに向けられた。

銃声が響き、レイの身体が撃ち抜かれた。
膝が崩れ、視界が傾き、空が灰色に染まっていた。

意識が遠のく中、彼は最後に思った。

(……生きろ、リナ。そして母さん、ごめん……ありがとう……)

その直後、リナの国の部隊が現場に到着した。銃声が数発、遠くでこだまする。
数人の敵兵が最後の抵抗を試みたが、応戦するまでもなかった。追い詰められた敵軍はあっけなく撤退した。

現場には、三つの遺体が転がっていた。血の色が乾きかけた土に染み込み、空にはまだ火薬の匂いが残っている。

「三人死んでる。……なぜ?こっちは撃ってないはずだぞ」

「やったぞー! 制圧したぞー!」

歓声が上がる。拳を突き上げ、跳ね回る者もいた。泥と硝煙の中で、勝利に酔う兵士たち。

その喧騒の中で、リナはひとり、言葉を失っていた。

倒れていたのは、レイだった。

何も言えなかった。涙も、出なかった。声すら出せず、ただ立っていた。レイの遺体のそばに。

戦死通知が、数日後、レイの母のもとに届いた。封筒を開く手が震え、名前を見た瞬間、崩れ落ちた。

「うそ……レイ……うそよ……!」

声にならない嗚咽が、静かな部屋に響いた。

そして、季節が巡った。

春が来た。桜の花が咲き誇る季節。

リナは、あの並木道を歩いていた。かつてレイと手をつないで歩いた場所。
ふたりで、未来を語り合った日々。

あの日も、春だった。やわらかな風が吹き、花びらが舞っていた。

(戦争が終わったら、結婚しようって……)

リナの中で、あの日の声がよみがえる。笑顔も、ぬくもりも、まだはっきりと覚えている。

でも、もう、彼はいない。

どうして、そんな守れない約束をしたの。
ちゃんと、結婚するって約束守ってよ。

リナの肩に、花びらが落ちた。淡いピンクの小さな花弁が、静かに揺れる。風が吹き、光がきらめく。

彼女は足を止め、見上げた。

満開の桜。その美しさが、胸を締めつけた。

リナは、黙って立ち尽くした。桜の下で、ただ時だけが、流れていた。

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