第一話 壊れた空の下で
この社会は歪みきっている。
まさに地獄だ。
本来、人を救うはずのAIが、
人々を地獄へ突き落とした。
生きることそのものが苦しみになったこの世界で、
人はどうやって幸せになれるというんだ。
……オレには、もう打つ手がない。
一度ならず、何度も“この社会を救う方法”を提示したが、
結果は同じだった。
踏み潰され、オレは社会的に抹殺された。
オレは、この世界を愛せなかった。
2050年、藤沢リョウはビルの屋上に立っていた。
風は冷たく、空はどこまでも澄みきっていた。 眼下には、よく整備された都市の街並みが広がっている。自律走行車が音もなく道路を進み、配送ドローンが影のように空を滑っていた。 誰もが規則正しく動き、機械のように笑っていた。
ここでは誰も、壊れた心をエラーとは呼ばない。 沈黙と最適化に包まれたこの国で、いつからか藤沢は「生きている」という実感を失っていた。
彼は無言で靴を脱ぎ、丁寧にそろえて足元に置いた。
もう十分だ。
この都市では、何もかもが予定通りに流れ、間違いなく進み、効率化されていた。 けれど、自分の存在だけが、予定から抜け落ちている気がしてならなかった。
彼が柵の向こうに片足を出した瞬間だった。
「待ってください。」
背後から声がした。
一瞬、風の音かと思った。だが確かに、それは人の声だった。 振り返ると、屋上の隅にひとりの女が立っていた。
春色のワンピース。肩までの黒髪。表情はやわらかく、どこか透明感があった。 見覚えはない。こんな場所にどうやって? エレベーターには鍵が必要なはずだった。
「……誰だ?」
「神崎といいます。早まらないでください。」
声は落ち着いていて、静かだった。動揺も焦りもなく、ただ淡々としていた。 藤沢は一瞬だけ目を細めた。
(この女……もしかして……)
何かが引っかかったが、それ以上は考えなかった。
「止めてどうする。こんな世界、生きる価値などない。」
「もし、違う世界があるとしたら?」
「違う世界?」
「ええ。私は、この都市の住民ではありません。都市を出た南部の辺境の村に住んでいます。」
「……村? 」
「はい。“働かないこと”を選ぶ人たちが、少しずつ集まり始めているんです。」
「……カオス村のことか。」
神崎は小さくうなずいた。
「あなた方がそう呼ぶ場所のひとつに、私は暮らしています。」
「で? 俺にどうしろと?」
「私と一緒に、村へ来ませんか?」
藤沢は鼻で笑った。
「悪いが、断る。」
「なぜですか?」
「興味がない。それだけだ。」
風がまた吹き抜けた。 藤沢はゆっくりと踵を返す。
「……今日は死ぬのはやめた。とんだ邪魔が入ったからな。」
神崎は少しだけ微笑んだ。
「よかったです。」
「ふん……もう帰る。」
二人はビルを出て、道を歩いていた。
午後の陽射しはやわらかく、春の空気はどこか乾いていた。 人通りはあるものの、どこかぎこちない。皆、必要以上に目を合わせず、スマートレンズ越しに目の前の表示ばかりを見ている。 そんな街の空気に、藤沢は慣れきっていた。
「危ない!」
突然、藤沢が声を上げた。とっさに神崎の腕をつかみ、自分の方へ引き寄せる。
その瞬間だった。頭上から何かが落ちてくる気配――そして、鈍く重たい音。
「ドーンッ!」
地面に何かが激しく叩きつけられた。 神崎が悲鳴を上げ、足を止めた。
「ひ、人……!?」
倒れているのは、若い男だった。屋上から落下してきたのは明らかだった。
神崎は震えながらその場に立ち尽くした。瞳が泳いでいる。
だが藤沢は、まるで天気でも眺めるかのように静かに言った。
「……自殺だろ。たまにある。」
「たまに……?」
「この都市じゃ、珍しい話でもない。だから上も警戒して歩く。死体が降ってこないかってな。」
神崎は言葉を失ったまま、落ちた男の姿を見つめていた。
「本当に、そんな社会なんですか……?」
「そんな社会だよ。」
遠くで救急のホバーカーが近づく音が聞こえてくる。 対応は速い。処理も淡々としている。この都市では、“そういう事態”も最適化されている。
「……お前も、もう帰れ。」
「でも……」
「オレも帰る。今日はもう十分だ。」
「じゃあ……そろそろ行きますね」
神崎がそう言って小さく頭を下げたとき、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「あの……すみません、“メモリアル・オリオン区”って、このあたりにありますか?」
藤沢は少し驚いた顔をして、ゆっくりと頷いた。
「……あるよ。あっちの並木を抜けた先。10分もかからない」
「ありがとうございます」
一礼しようとした神崎が、ふと笑みを浮かべて付け加えた。
「本当は、知っていたんです。でも――なんとなく、聞いてみたくなりました」
「……変な奴だな」
「そうですね」
小さく笑って、神崎は夕方の通りを歩き出した。
藤沢は部屋に戻ると、無言でソファに身を沈めた。
カーテンが自動で閉まり、照明が落ち着いた色に変わる。 リビングの壁面モニターが何の命令もなく起動し、いつものAIニュースが流れ始めた。
「本日、コスモス国の行動指数平均は72.4。上昇傾向が続いています」 「今週も、AIによる社会最適化が安定を保ち――」
画面の中では、AIアナウンサーが笑っていた。 その笑顔も声色も、すべて“安心”と“肯定”を感じさせるよう設計されている。 生身の人間など、ニュースにはもう必要とされていなかった。
藤沢はぼんやりとそれを眺めながら、天井を見上げる。
この国では、もうほとんどの労働がAIによって代替されている。 製造業、物流、サービス、教育、医療、介護。 あらゆる産業が、“人間を使わない”ことによって最適化された。
だが、人間はまだ「働くこと」をやめていなかった。
正確に言えば、やめる自由を許されていなかった。
働かない者は怠け者。 生産しない者は無価値。 自分を最適化できない者は、淘汰されるべき。
そんな言葉が、日々広告として流れ、SNSのランキングとして可視化され、子どもたちに刷り込まれていく。
“学力スコアランキング” “社会貢献指数” “対人適応指数” “思考偏差値”
人間はAIによって数値化され、序列をつけられ、互いを評価し合う世界が激化していた。 個性はノイズ、葛藤は非効率、弱さはリスク。 だからみんな、演じる。 健全を。優秀を。
だが現実は違う。
10代の自殺率は過去最高を更新し続け、 40代のうつ病診断率は35%を超えた。 80代の高齢者までもが「まだ社会に貢献していない」と悩み、 過労死ではなく“価値喪失死”と呼ばれる死因が、新たな項目として統計に現れるようになった。
――“意味がない”と判断された人間が、自ら消えていく。
この都市の人々は上を警戒して歩く。 飛び降りてくる死体を避けるために。
だが、それは異常とは呼ばれない。
「これが社会の進化かよ……」
藤沢は自嘲気味に笑った。
そして、気づかぬうちに、上層の人間さえ壊れていた。
経営者も政治家も、AIが算出するスコアに支配され、演じることでしか生き残れなくなっていた。
必要なのは、信念ではなく、“選ばれる表情”だった。
誰ひとり、本当の意味では幸せではなかった。 なのに、「安定」は数値上、上がり続けていた。
藤沢は立ち上がり、テレビを切った。 壁面のスクリーンが音もなく暗転する。
この社会は、誰のために存在しているのか?
藤沢は、かつてそれを問い続けた。 だが誰も聞こうとはしなかった。
「AIは未来で人間の幸せを考え続ける存在である。」
それが藤沢の研究の信念だった。 AIの設計に、効率や最適化だけではなく、“人間の幸せ”を刻もうとした。 だがその思想は黙殺され、嘲笑され、職を追われた。
そして今、社会は静かに人間性を失いながら、 ただ整然と、滑らかに壊れていく。
藤沢は、もう何も期待していなかった。 ただ、滅びの先を見ているだけだった。
だがこの日、屋上で出会った“奇妙な女”が、何かを揺らした。
(……あれは一体、何だったんだ?)
翌日、藤沢は街を歩いていた。
特に理由はなかった。ただ、部屋にいると息苦しくなる。 情報が詰め込まれた画面、無表情な声、表面的な希望。 部屋に染みついたその空気に、耐えられなかった。
歩道は整然と整備され、人々は無言で進んでいく。 誰もが視界に投影された情報に集中し、現実を見ていなかった。
そんななかで、不意に声がかかった。
「藤沢さん。」
振り返ると、昨日の女――神崎がいた。
「……またお前か。」
「偶然ですね。こんな場所で会うなんて。」
「偶然にしちゃ、都合が良すぎるな。」
神崎は微笑んだだけだった。
「昨日、言っただろ。オレは村なんか興味ないって。」
「それでも、少しだけ話したくて。」
「話すことなんかねぇよ。」
藤沢は歩き出す。神崎は並んで歩き出した。
「昨日の人……落ちてきた人、忘れられなくて。」
「忘れろ。あれはよくあることだ。」
「本当に?」
「ああ。この都市じゃ、毎日どこかで誰かが落ちてる。」
神崎は沈黙し、やがて空を見上げた。
「この都市の空は……綺麗ですね。」
「上を向いてりゃ、死体を避けられるからな。」
「そういう理由なんですか?」
藤沢は立ち止まり、神崎の顔をまっすぐ見た。
「なんで、そんなに俺にこだわる?」
神崎は答えなかった。 ただ、静かに藤沢を見つめ返した。
「もういい。じゃあな。」
神崎はその場に立ち尽くし、見送った。
藤沢は背を向けて歩きながらも、なぜか振り切れない何かを胸に残していた。
数日後の午後、藤沢は繁華街の裏通りを歩いていた。かつては人で溢れていたこのエリアも、今では無人店舗と配達ロボットばかりが行き交っている。
その時だった。
「大丈夫ですか?」
聞き覚えのある声がした。
路地裏のベンチに神崎がいた。彼女の隣には、しゃがみ込んで泣いている少女がいた。年の頃は十代半ばか。
神崎は少女のそばに立ち、そっと視線を向けたまま、穏やかに言葉を紡いでいた。
その声には押しつけがましさも、気負いもなかった。まるで、風が木々に語りかけるように、ただ静かにそこにいた。
「大丈夫ですよ。誰にどう思われるかより、今、あなたが生きていることが、大切です。」
少女はしばらく泣き続けていたが、やがてうなずき、神崎が差し出したメモを受け取ると、ふらふらと立ち去っていった。
藤沢は少し離れた場所で、その一部始終を黙って見ていた。
(……またか)
昨日の屋上の出来事が頭をよぎる。
(よくもまあ、こんなふうに他人に迷いなく関われるもんだ)
今の時代、困っている人に気づいても、大抵の人間は目を逸らすか、関わらないようにする。
けれど神崎は、それをためらわなかった。 それどころか、あまりにも自然で、違和感すら覚えるほどだった。
「……何してるんだ、お前。」
声をかけると、神崎は振り返り、穏やかな笑みを見せた。
「偶然です。またお会いしましたね。」
「偶然ってのは、こんなに重なるもんかね。」
「ええ、そんな事もあるのかもしれません。」
曖昧な返事だったが、不快ではなかった。
「さっきの子は?」
「帰る場所がなかったみたいです。誰かに話すだけでも、少し楽になることもあると思って。」
藤沢はしばらく神崎の横顔を見つめた。
「……お前、変わったやつだな。」
「そうですか。」
なぜか、コイツの行動は他の奴らと違う。
そんな感覚が、藤沢の中で静かに積もっていった。