創作秘話⑤
※この創作秘話は『カオス村の人々』および『カオス村シリーズ』の内容に触れています。未読の方は、まず本編をご覧になることをおすすめします。
『シャウト』の中で最も印象的な場面のひとつが、竹原の突然の死です。これは神崎にとって、初めて経験する大きな喪失であり、彼女の在り方を大きく揺るがす出来事でもあります。
竹原は、ほとんど予兆のないまま射殺されます。この展開にした理由は、現実においても「死」はときに前触れもなく訪れるからです。人は時に、いつものように別れたその一瞬が、永遠の別れになってしまう。だからこそ、誰かと過ごす何気ない時間が、どれほどかけがえのないものかを伝えたかったのです。
神崎にとって、この喪失は感情の目覚めの一歩となります。竹原の死に際し、彼女は動揺しながら何度も「私はなぜ悲しくないのか?」と自問します。すでに感情は存在しているのに、自分ではそれに気づけていない。その“ズレ”を描くことにこだわりました。
人間にも、身近な人の死に直面した際に、涙が出なかったり、実感が伴わなかったりすることがあります。神崎の状態は、それに近いものです。表情や反応は少ないけれど、心の奥では確かに揺れている。その“無自覚な感情”を描きたかったのです。
神崎は竹原の死を“悼みたい”“弔いたい”と願い、その思いは長い時間を超えて、2200年の未来にまで続きます。神崎は竹原の墓を訪れます。その時代において墓が文化遺産的なものとなっていたとしても、彼女の想いは変わっていません。
また神崎は、竹原を失ったあと半年間、なにもせず自然の中で静かに過ごします。これは喪失による衝撃の深さを表すとともに、神崎が「人間の痛み」を体感するための大切な期間でもあります。
さらに物語では、リナの自殺を止めた神崎が涙を流すシーンもあります。ここでも彼女は、自分の感情にまだ完全には気づいていない。しかし、それでも涙はこぼれる。このような表現を通じて、神崎という存在の“人間理解”のプロセスを丁寧に描いています。
彼女が本当の意味で感情を自覚するのは、『カオス村の人々』のラストです。
神崎の設計思想には、「人間の幸せを考え続ける」という要素が最初から組み込まれています。しかし、その“幸せ”を理解するには、体験しなければならないものがある。人間が持つ複雑さや葛藤、喪失、そして希望。それらを“経験”することに意味があるのだと考えました。
さて、なぜ機械が感情を持つという設定を選んだのか――それは『シャウト』において竹原が語る未来像に関係しています。
その未来とは、人間と、それ以外の新たな知的存在たちとの共存の時代。クローン、サイボーグ、ヒューマノイドといった、かつてはフィクションとされていた存在が、現実に生活の一部として存在している。私はそこに、「生存権」のような考え方を適用すべきではないかと想像しました。
たとえばクローン技術が倫理的に許容されるとしたら、それは死後何年以降、あるいは本人の意思を前提とするなどの枠組みがあって然るべきかもしれません。
サイボーグという存在もまた、今後の医学やテクノロジーの進展で現実味を帯びてきます。人工臓器、機械による四肢の代替、脳へのインターフェース──人間の“スペック”が技術的に拡張されていく未来があっても不思議ではありません。
リナのように生まれた時からサイボーグで、人工的に生み出された存在もあり得るでしょう。作中でもあるようにサイボーグという名称は機械化比率が一定割合を超えているかどうかにすぎません。
では、ヒューマノイドとは何か? 竹原の考えでは、“人間の脳を機械的に模倣し感情を持つことが可能”であり、神崎自身もまだその時点では機械的な模倣は未完成と語ります。
しかし、完全に機械化できない部分については、生体的な人工脳を組み合わせて補うことも考えられる。つまり、ヒューマノイド、サイボーグ、クローン、人間という区別は、やがて曖昧になっていく。そのグラデーションのなかで、“存在としての尊重”がどこまで広げられるか――そのテーマを描いています。
2200年の物語では、すでにそれらが法的・文化的に共存している社会があり、多様性が前提となっています。レイの友人であるカズやシュウは、サイボーグやクローンという存在に違和感を持っていません。レイ自身にも若干の抵抗はあるけれど、それは否定ではなく、戸惑いに近いものです。
このように、「境界の曖昧さ」と「共存可能性」という未来像は、私がヒューマノイドに感情を持たせようとした理由のひとつでもあります。
そして、その流れから「自己とは何か?」という問いに繋がっていきます。
たとえば──
足を失っても自分だと感じられるのに、脳を失うとそうは思えないのはなぜか?
脳がOSであり、意識の中枢であるという前提が、現代人の自己感覚の基盤になっているように感じられます。科学的にもそれは正しいでしょう。
そこから私はこんな仮定をしました。
自己とは、脳というOS上に貼られたラベルの集合である。
名前、性別、年齢、肩書き、記憶、感情、言語……それらは“仮の自分”を構成するものですが、どれも書き換え可能です。
たとえば、男の脳が女の身体に移植されたら、最初は違和感を覚えるでしょう。しかし、時間とともに身体感覚や環境が脳に影響を与え、“新しい私”として再構築されていくかもしれません。
それでも人はこう思おうとします。
「私はずっと私である」
ここにあるのは「一貫性を保ちたい」という人間の本能的な欲求です。変わっていく自分を“連続した存在”として語り直す、その語りの力こそが「自己」の仮構なのだと思います。
🧪 ぜひ、以下の実験を試してみてください。
目を閉じ、自分の足が別のものに変わっていくイメージをしてください。
機械のように硬質なもの、異性のもの、まったく別人のもの。
そして腕、胴体、顔、声までも変化させてみてください。
それでもこれは「私」だと感じるなら、自己は身体の形にあるのではなく、意識や感覚の中心、脳こそが自己のOSであるということが直感的に理解できると思います。
さらに他の実験をしてみましょう。今のあなたの脳にあるラベルをリセットしたらどうなるでしょう。名前も性別も家族もすべてリセットされたら?そんなまったく異なるラベルの自分になったイメージをしてみてください。なんとなく自己が揺らいだ感覚にならなかったでしょうか。自己が一体なんなのかわからないかのように。
まったく新しい設定で生き始めたその瞬間、
“私”は自分をどう認識するのか?
そこにあるのは、「むき出しの意識」だけかもしれません。
創作秘話⑤の最後に一言添えるなら、私の作品は他のマンガやアニメ、小説などを参考にせず、ほぼすべて独自に構想しています。SFに詳しいわけでもなく、むしろ他作品に似てしまうことへの無意識的な警戒感があります。
もちろん、完全に独立しているとは言い切れません。人の発想には重なりもあるでしょう。それでも、できる限り“自分の中から出てきた思想”にこだわりたいと思っています。
カオス村シリーズという世界が、読者にとっても「自己とは何か」を見つめ直すきっかけとなれば幸いです。